「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する

亀山郁夫著、光文社新書
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)

大ヒットしている「古典新訳シリーズ」の「カラマーゾフ」の翻訳者が著した「第二の小説」想像本。著者が事実上のあとがきの題名としている「余熱の書」とうのが、著者のみならず、私のようにこの本を読む多くの読者にとってもしっくりくる。
ドストエフスキーが「カラマーゾフ」の続編を構想していたというのはよく知られたことらしい。確かに序文となっている「著者より」でそのことが明確に書かれているし、ドストエフスキーの未亡人らの証言も残されている。それに本編中の「子供たち」は本筋とは関係のない登場人物たちである。亀山氏は本編の徹底的な分析と、多くの資料を分析し、一つの「イメージ」を提示している。著者の思い入れが強く出過ぎているためか、全体的にややくどく、後半の異端や哲学についての考察はやや難解だが、結論にもそんなに無理はない(そもそも著者の翻訳でしか「カラマーゾフ」を知らないのだから、当たり前なのかもしれないが)。「もし」を空想することを無意味に感じる向きもあるかもしれない。しかし、その「もし」を楽しく空想させるところにもこの作品の人を引きつける「すごさ」があるのだと思う。
そのうえで、私なりの感覚的な意見を述べたい。私はやはり死ぬのはアリョーシャだったのではないかと考えている。「麦」についてのエピグラフや「著者より」におけるアリョーシャを過去の人のように扱う表現もその方がしっくりくる。何より、ドストエフスキーがアリョーシャをキリストに擬しているのならば、その「死」あるいは「磔刑」、もしかすると「復活」までもを描こうとするのではないかと感じるからだ。著者はアリョーシャを「復活したキリスト」とする見方に傾き過ぎているのではないかと感じられた。例えば「第二の小説」の主人公と目されるコーリャが頭の弱い男をだましてガチョウを殺させる挿話について

車輪に首を切られるガチョウのように、コーリャは絞首台(ないしは断頭台)で最後をとげる暗示、とも考えることができる。

としているが、この挿話は「コーリャが何らかの形でかかわってアリョーシャが殺される(処刑される)暗示」と考えた方が自然ではないだろうか?
いずれにしても、読者の側もどんどん「空想」が広がる楽しい本である。もちろん、本編を読んでいないとついていけないと思うが。