ティファニーで朝食を

トルーマン・カポーティ著、村上春樹訳、新潮社
ティファニーで朝食を
本は購入した順番に読むのを原則にしているが、たまにはこういう例外もある。昨日届き、今日一日で読了した。いわゆる「村上春樹新訳モノ」の最新刊。オードリー・ヘプバーンの映画で有名な、という枕詞が付くカポーティの作品。私は映画を観たことがなく、旧訳も原書も未読であった。
これまでの「グレート・ギャツビー」「ロング・グッドバイ」のように、「村上新訳」は原書の題名をそのまま用いられていたが、今回は映画の邦題にもなった旧訳の題名をそのまま使用している。映画と書籍のどちらが先に命名したのか知らないが、ヒロインであるホリーの「いっちゃっている」様子がよく表れたいい題である。「ブレックファースト・アット・ティファニーズ」では締まりが悪かろう。
時代背景といい、「僕」のあこがれの対象を描くという構図といい、その対象が事件に巻き込まれるというプロットといい「ギャツビー」に共通する部分が多い。極端な言い方をすれば、このあこがれの対象が男なのか、女なのかという違いしかないような気さえする。そういう意味では「ギャツビー」は女性により読み継がれ、本書は、映画のイメージとは違い、男性により読み継がれているのではないかと思う。ホリーがとにかく魅力的に描かれている。例えば「僕」が初めて相対した際、家出の理由を聞いた時の描写

彼女はぽかんとした顔で僕を見て、それからむずがゆいところでもあるみたいに、鼻をこすった。その動作が何度か繰り返されるのを見ているうちに、これは「立ち入った質問はされたくない」という彼女なりのシグナルなのだと思いあたった。聞かれもしないのに、自らの内情をあけすけに好んでしゃべりたがる人が往々にしてそうであるように、彼女は直接的な質問をされたり、細部の説明を求められたりすると、とたんに防御が固くなった。

などが秀逸。男っていうのは、あけすけのようでいて謎めいた、手が届きそうですんでのところで身をかわす、このような女性のはまっていくのである。