246

沢木耕太郎著、スイッチ・パブリッシング
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和製「ニュージャーナリズムの旗手」とされた沢木氏による1986年1月から9月までの生活をつづった「日記風エッセイ」。沢木氏の30歳代最後の年だそうだ。書名の「246」は、沢木氏の自宅がある世田谷を通る国道の名前が由来らしい。タイムリーに雑誌「SWITCH」に連載されていたようなので、なぜ今頃になって単行本化されたのかはよく分からない。いわゆる「ブログ本」の流行を受けたのだろうか。確かに、文章はちょっと手の込んだアナログ版ブログとも言えそうなものである。
私は学生時代、沢木氏の作品を読みあさった。「テロルの決算」に感動し、「一瞬の夏」にあこがれ、ルポルタージュ集の出来映えにうなった。一時期は尊敬する作家として、洋のヘミングウェイ、和の沢木耕太郎を挙げていた。「深夜特急」の影響で、イスタンブールからパリまでを2カ月かけて貧乏旅行したほどだ。本書の原文が書かれた年は、すでに沢木氏の名声は確立され、「深夜特急」が刊行途上にある時期のようだ。もしかすると、一番乗りに乗っていた時期なのかもしれない。
また、娘さんが、現在の私の息子と同じくらいの年齢だというのにも親しみを感じた。例えば、たまたま乗ったタクシーの運転手のこんなセリフ。

「このあいだ、ラジオで面白いことを聞いたよ。子供が大きくなると、よく親がうちの子供は言うことを聞かないだの、孝行をしないだのと文句を言うけど、あれは間違っているんだってさ。子供はね、三歳までに、もう親に恩は返しているんだって。(中略)三歳までの子供は可愛いだろ。あの可愛さは何にも代えられない。だからさ、その可愛さで親に一生分の恩返ししているっていうわけさ」

しかし、いつからか、沢木氏の作品はあまり読まなくなった。おそらく「私ジャーナリズム」とも称された作者、取材者の思いやこだわりが強く反映された作品が重く感じられるようになったからだと思う。確かに「一瞬の夏」はその主観性が大成功を収めた例だが、その手法を次々と、あらゆるテーマでやられると、ちょっと待ってくれ、と言いたくなる。それが私なりにしんどくなったのだと思う。
そういう「こだわり」を書くのがまさにこういったエッセイの役目なのだが、何となく既視感を覚えるのは、それらの「こだわり」をすでに沢木氏が作品に盛り込んでいるからなのだろう。